2017年6月22日木曜日

『砂の粒/孤独な場所で 金井美恵子自選短篇集』

自ら迷い込むのだ、と思う。自ら迷い込み。自分は生き直すのだ、と思う。彷徨い続け、繰り返し続け、再び出会い続け。ありふれた物語を。ありふれた時間を。ありふれた情景を。生き直しているのだ、と思う。私を。自分と言う境目を失くしたまま。私は無際限に私を生き直す。
倦怠を。苦しみを。痛みを。苛立ちを。煩わしさを。匂いを。愉悦を。情欲を。曖昧さを。危うさを。今一度、幾度となく感じ。今一度、幾度となく体験し。私は私を生き直しているのだ、と思う。遭遇した、或いは自ら望み、選んだ何もかもを自分の記憶としながら。私は今、私を生き直しているのだ、と思う。
生き直すと言う至福。彷徨い続け、繰り返し続け、再び出会い続けると言う至福。それは金井美恵子の言葉を読む事によってのみ、繊細に、繊細に、間隙なく緻密に、間隙さえ緻密に編み込まれた言葉を読む事によってのみ到達し得る鮮烈な。決して生易しいものではない喜び。生半可なものではない喜び。


✳︎
自分の内に、物語は無数に埋もれている。情景は無数に埋もれている。見覚えのない、心当たりのない、物語も、情景も、無数に埋もれている。思い出してなお、見覚えのなさに、心当たりのなさに困惑する類の。見覚えがなくとも、心当たりがなくとも、自分の内に埋もれていた事だけは疑いようがなく。それ故に困惑する類の。
埋もれてしまった物語を、情景を、見知らぬ彼等を引き出される喜びを味わうため、自分は物語を、情景を取り込み、蓄え、忘れ続ける。引き出されると言う喜び、読む事によってのみ得られる、代替不可能なその喜びを体感するため。自分は読み続ける。読む事こそが自分にとっては唯一の手段であるから。自分は金井美恵子を読み続ける。


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2017年6月17日土曜日

イタロ・カルヴィーノ『まっぷたつの子爵』

逐一立ち止まっていたらそれだけで終わってしまうような残酷さや凄惨さや醜さが沢山。しかもすぐそこにある。軽やかな語り口に相応しく、平然と、そこかしこに満ちていて、何とも恐ろしい。
善も悪も持つ人間達の平穏に、悪にせよ善にせよ、完全にそれのみである存在が入り込む事が、いかに厄介か。自分もいたように思う。ただ悪半と善半に振り回されるだけの人間達の中に。語り手の少年を一人ぼっちにする側に。完全さへの熱狂などとうになく、とうに失い。子爵が再び一人になる事で取り戻し得た平凡さと、平凡なその後、平凡な思慮深さに結局満足してしまう側に。善も、悪も、知恵も、断片的にしか持たぬまま生きる、哀しくて滑稽な人間達の中に。
善のみ、悪のみである不完全な人間の極端で厄介な完全さと共に、善悪どちらをも備える完全な人間の不完全さをも嫌と言うほど思い知らされるのだけれど。矛盾や齟齬を見過ごし、諦め、飲み込み、順応する”完全”の世界に嘆きは確かに込み上げるのだけれど。少年と共に叫ぶには自分はもう、自分に、自分の平穏に慣れ過ぎてしまっていた。



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2017年6月15日木曜日

河野多惠子『考えられないこと』

淡々と、静かに話し。考えられぬような不可思議な余韻だけを残して、河野多惠子はいなくなってしまった。今はただ、ぽかんと空いている。静けさの中に今はただ、不可思議な痕跡だけがある。自分はその痕跡を、その痕跡の不可思議さを、恐らくなぞり続けるように思う。
河野多惠子の執拗さを愛する為に。平板な時間の内の、些細な一点を。唐突に、脈絡なく拘り、克明に記す、あの不可解で官能的な執拗さを愛する為に。または、河野多惠子の言葉の、怖さを愛する為に。密やかな異常を捉えてなお、硬く、白々と、どこまでも端正であり続ける事で、やがて凄みを帯びる言葉の。あの怖さを愛する為に。
この本が自分の本棚におさまり、寡黙に佇み続ける姿を思い描くと、何か、堪らない気持ちになる。暗く、ひっそりと反芻し続ける類の喜びを感じる。



考えられないこと
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2017年6月13日火曜日

感情供養5

動物園、ツルの前、ツルとキツネの話を見
キツネとツルのごちそう
記憶が蘇る
それは自分の中にすでにいた
埋もれてしまっていた
物語が蘇る
またあるだろうか
このような再会が
埋もれてしまっている物語との再会が
まだある気がする
まだ沢山、埋もれてしまっている気がする

2017年6月8日木曜日

感情供養4

毒を知らぬものに毒は効かないのか。
呪いを知らぬものに呪いは効かないのか。
言葉を知らぬものに言葉が効かぬように。
理不尽だと思う。
私は毒を知らぬものの生に毒を塗りたい。
私は呪いを知らぬものの生に呪いをかけたい。
気付かせたい。
毒の存在を教え、もう何も楽しめなくなるよう、毒を塗り込んでやりたい。
呪いの存在を教え、もう何も楽しめなくなるよう、呪いをかけてやりたい。
じわじわと蝕まれ行き、やがてもう二度と楽しめなくなるといい。

多和田葉子「かかとを失くして」

不審そうに、胡散臭そうに、値踏みするようジロジロと全身を、足元を見られ続けるいたたまれなさ。笑われ、馬鹿にされ、軽んじられる事の不快さ。どこが可笑しいのか。何が欠けているのか。欠けているとは何か。普通でないとは何か。普通とはどれか。どうすれば普通になるのか。知らないと言う、わからないと言う不安、後ろ暗さ。噛み合わず、届かず、教えて貰う事さえ上手くいかぬ理不尽さ。まるで身に覚えのない事を指摘された瞬間の困惑。伝わらず、通じず、一方的に断言された瞬間の、あの困惑…。
何と言う居辛さ。溶け込む事はあまりにも難しく、また溶け込みたくもないし、どうしたって歩き方はぎこちなくなってしまう。



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感情供養3

異星人が怖い。
異星人は自分の正しさを疑わない。
異星人は自分の法の正しさを疑わない。
異星人は自分の健康の正しさを疑わない。
異星人は自分の要求の正しさを疑わない。
異星人は自分の手段の正しさを疑わない。
異星人は自分の判断の正しさを疑わない。
異星人は自分の自信の正しさを疑わない。
異星人は自分の美しさを疑わない。
異星人が怖い。
ヒグマも怖い。