2017年10月20日金曜日

小沼丹『清水町先生』

‪好ましさしかない。凄くいい。飄々と、長閑で、穏やかで、屈託のない小沼丹の語り口も、清水町先生も、清水町先生とのやり取りも。「将棋」や「釣竿」など。心地よさしかない。先生とのエピソードはどれもふうわりと可笑しい。その交流、間柄自体、今はもうどこにもないものであるように思え、どこか不思議。そしてちょっと羨ましい…。
小沼丹の文章がとても好きなのだけれども。そのよさを説明する事は、それこそ雲を掴むような行為であると、いつも思う。言葉にし難く、また安易な言葉におさめてしまいたくもない、と言う感覚。こうなればもう、引用するほかない。自分には、引用するほか術がない。

〈井伏さんは、たいへん難しい顔をして僕を見た。それから、
ーー魚は人を見る眼があるんだ。君が見てると魚が寄って来ないんだ。どうだ、判つたらう?
と云はれた。そんな莫迦な話はないのであって、いまだに僕は「判つた」とは思へない。〉

〈つと立たれた先生は、将棋盤を私の前において、云はれた。 「ちよつとだけやろう。ちよつとだけだよ。僕は今日原稿を書かなくちやならないんだ。」〉
〈私が勝つた。さて、失礼いたします、と両手をついて膝を揃へて先生を見ると、先生の駒はきちんと並んで次の勝負を待つてゐる。そして、いまの勝負はあそこが悪かつたね、とか云つて私の始めないのを訝つておいでのやうであつた。〉
〈「原稿なんて、いいんだ。」 先生は乱棒なことを云ひ出された。〉

…やはりふうわりと可笑しい。
楽しさも、親しさも、慕わしさも、自然に漂っていて、読めばじんわりと沁み込んで来る。力が抜け、いい塩梅になる。小沼丹の文章がもっと読みたくなる。



清水町先生 (ちくま文庫)
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小沼 丹
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2017年10月16日月曜日

村田喜代子『八幡炎炎記』

何て雑多なのだろうか、と思う。何て幅広いのだろうか、と思う。何て不可思議で、複雑で、おさまり切らなくて、悲しくて、激しくて、野太くて、厚かましくて、頑丈で、逞しくて、ごみごみとしていて、暑苦しくて、見辛くて、汚くて、騒がしくて、淫らで、身勝手で、ややこしくて、手に負えなくて、敵わなくて、厄介なのだろうか、と思う。全然、一つも綺麗にはいかない。でこぼこ、ごつごつとしている。難しくて、もどかしい。やるせない。紙一重で、何があるかわからない。掴み難く、予測し難い。生というもの。生の雑多さとでも言うべきごちゃつき具合。ぐつぐつと煮えたぎっている。悶々とわだかまっている。飲み込もうしても、今はまだつっかえてしまう。
それは煮詰まれば滋養となり得る様相。兎に角熱くて、ごろごろと入っていて、どろどろに濁っていて、強烈な臭いを放ち、けれど煮詰まれば、滋養となり得るもの。今はまだ溶け切っていないため。今はまだ混ざり切っていないため。煮詰まるまで待つ。どのようになるのか。どうにもならないのか。わかるまで待つ。もっと凄まじい様相になるまで、煮詰まるまで待つ。



八幡炎炎記
八幡炎炎記
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村田 喜代子
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2017年10月13日金曜日

金井美恵子『重箱のすみ』

最高であった。自らの愛するものを、そのよさを、魅力を、如何に甘美であり、如何に快いかを物語る際の、金井美恵子の言葉の素晴らしさ…しなやかで、艶やかで、強く、手強く、緻密であり、繊細であり、読む度にうっとりとしてしまう。重く、気怠く、色濃く、厚く。いつにも増して官能的で。凄みさえ帯び。読むと言う至福、立ちのぼって来るものの鮮烈さにめまい。…反対に、悪口や嫌いや、如何にだめであるかを思い知らせる文章はいつも通り最高に面白いので笑う。金井美恵子を読み始めた時分はそれこそ恐々笑っていたけれど、今はもう、平気で笑う。

まず表紙から楽しい。表紙からわくわくする一冊。たくさん詰まっていて、一つ取り出せばほかにも色々ついて来て、ただ一つだけで終わる事なんてなくて、キリがなくなってしまったりもして、その一つ一つが自分には蠱惑的に見えるのだけれども、それがすべて金井美恵子であるという嬉しさ。 

〈書いている時のあの楽しさ〉…〈あの、めちゃくちゃに甘美な楽しさと疲労と困惑とためらいと絶望と胸のむかつきと息苦しさ、貧しい豊かさと豊かな貧しさが混りあう水の中から浮びあがり、それなのにひどくのどがかわいていて、かわきをいやすためには、もっともっと言葉が必要なのだという全身的な渇望の疲労困憊のはてに、愛する小説と愛する映画を飲みつくしたいと欲望しながら読んだり見たりする渇きを含めた、書くことの快楽と疲労〉…他の何よりも自分には金井美恵子の言葉が気持ちよい。ただ読み続け、ひたすらに読み続け、全身で享受する。
彼女自身もまた読む事の喜びを知る読み手であるが故に、読み手として読む事の喜びを知る自分自身さえ、自らの言葉で、自らが書き終えた小説で楽しませる事が出来る、自らを再び、書くと言う行為の不毛さや甘美さへと向かわせる事が出来る書き手であるが故に、金井美恵子の言葉は気持ちいいのだと実感する。



重箱のすみ
重箱のすみ
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金井 美恵子
講談社
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2017年10月7日土曜日

種村季弘『雨の日はソファで散歩』

賢者か、仙人か。種村季弘は凄い。兎に角凄かった。遁世の感じ、あらゆる美を、愉しさを味わい続けた果てのそれであって、何と言うか、森の奥深くに佇む年代物の木のよう。マホガニーのよう。化生の長のよう。宝も埃も妖怪も埋もれる蔵のよう。ずっしりしていて、静かで、穏やかで、品があって、けれどどこか、ゾクゾクとするような艶を漂わせていて。艶と言うものは年季が入ると妖気じみたものになると言うか、一つの凄みと化すのだな、とつくづく思う。はかり知れぬ重みと重なり。穏やかなのに隙がない。言葉は鷹揚だけれども、その眼光は鋭く妖しい。円熟の審美眼。自分には見えぬものを教えてもらう楽しさよ。

矢川澄子のこと。矢川澄子の結婚生活を表す、〈一卵性双生児みたいだった〉と言う言葉が腑に落ちる。共犯者めいた二人。自分はその姿を『誘惑者』で確かに見たように思う。〈鳥ほどに軽い、少女のような〉彼女を。妻としての、片割れとしての彼女を。



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2017年10月2日月曜日

吉田知子『千年往来』

目まぐるしく往き来してすぐに酔う。それもスムーズな往来ではなく、ブツッ、ブツッ、と一回一回途切れる、暗転する形での往来であるから余計に。見るべきもの、追うべきものをこちらが決め切る前、その時間に馴染み切る前に突然、ブッツリと切り替わるため、ひどく不安になる。変に酔う。
しかしどこを見ても不穏、不吉。人の生き死にの様相を、汚れたまま、澱んだまま、血塗れのまま、泥のついたまま、ふてぶてしいまま、呆気ないまま、遣る瀬無いまま、無様なまま、悲しいまま、剥き出しの姿のまま、明け透けに物語る断片の数々。現れてはねばねばとまとわりついて咀嚼し難い類の不快感の塊を残し、忽然と闇に消える。それがぐるぐると、足早に、静けさに至るまで、延々続く。延々回り続ける。
まるで嵐の只中にでもいたかのよう。とんでもなく疲弊する。過ぎ去って今は、空しいが穏やか。前後不覚になりたい欲求は十分満たされた。あんなにも明け透けで剥き出しで煩わしい所、しかもその連続、円環、もう戻りたくない。もう静けさの方がいい。自覚していないだけで、所詮自分も似たような環の中に存在しているのだろうし。



千年往来
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吉田 知子
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2017年9月27日水曜日

皆川博子『ゆめこ縮緬』

陽の光の届かぬ、暗がりに棲む者達。湿り、濁り、じめじめと黴臭く。汚れ、腐り、崩れかけ、滞る暗がりに。蔑まれ、疎まれ、遠ざけられ、潜むよう、暗がりに棲む者達の。果て行く様。密やかに育ち、爛熟したその果て。どろりと重く、艶やかな香りを放ち、闇に溶け行く様。引きずり込まれる。持って行かれてしまう。
本を閉じてもしばらく、自分は自分を見失ったまま。どこにいるのかさえも曖昧。目の前も、思考も、靄がかかったまま。奪われてしまったまま。厚く、広く、濃い余韻。やはり沼のようだと感じる。皆川博子の世界は、底の見えぬ、沼のよう。一度沈んでしまえば、沈む快楽を知ってしまえば、浮上する事は恐ろしく難しい。



ゆめこ縮緬 (集英社文庫)
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皆川 博子
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2017年9月21日木曜日

金井美恵子『ページをめくる指』

絵本の世界。やがて愉悦となるもの達。いつか思い出す時。愉悦となり、熱く込み上げて来るもの達。忘れては思い出し。思い出すと言う甘美な瞬間を、幾度となく体験する為に忘れては。当然のごとく思い当たり。思い出し。繰り返し反芻する事になるもの達。今初めて出会い。ゆっくりと蓄える。今再び出会い。ゆっくりと堪能する。
ページをめくる喜び。甘く、慕わしく、密やかなあの喜びは。ページをめくり、読む、と言う行為は。ページをめくる、”今”だけで完結してしまうものなどではなく。また次の物語へと繋がって行くもの。時には意外な、かなり遠い所にまでも飛んで行き。時には何か別の、思わぬ情景を運んで来たりもするもの。やがて再び同じ物語へと私を導き。懐かしさで、愛おしさで、或いは驚きや失望で、私を満たして行くもの。

しかし殆どが石井桃子訳と言う凄さよ…。一層憧れが膨らむ。あの喜びも、あの快さも、辿って行けば確かに、石井桃子がいる。



ページをめくる指
ページをめくる指
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金井 美恵子
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