2017年8月14日月曜日

栗田有起『蟋蟀』

よかった。自分の好きな栗田有起ばかり。「豆姉妹」や『マルコの夢』を読んでいた時の心地よさがここに。
みんな一所懸命自分を生きていて、愛おしかった。何か少し、人と違う、変わった所(しかも何か少し、何か一つだけ、である為に目立たない、わかりにくい、気付かれにくい、自分さえ我慢すれば隠し通せてしまう類の、かえって厄介であるそれ)のある自分を。苦しくても悲しくても、生き辛くても嫌になっても、やめる事も、別の何かになる事も出来ず、結局は生きて行くほかのない自分を。素朴に、みんな驚くほど素朴に。一所懸命。
諦める事なく、ヤケになる事なく。どちらかと言えば前向きに、けれどそれも無理に気張った結果のぎこちない前向きなどではなく、もっと自然な、力の抜けた、ゆるっとした前向き。自分に馴染む、と言った感じの。人とは違う、自分の普通に。自分であるが故に起こる、いい事も、悪い事も含め。自分自身に馴染んで行くと言った感じの。緩やかで、ほどよい前向き具合で。愛おしいし、何より居心地がよくて、いつまでも見ていたくなってしまう。



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2017年8月10日木曜日

皆川博子『鎖と罠 皆川博子傑作短篇集』

読めばずるずると引き摺り込まれて行く。沼のようだ、といつも思う。あまりにも甘美な抗い難さ。早々に身を委ね、沈み込む。誘われるまま、どこまでも沈んで行く。深く、深く。二度と浮上出来ぬ程に。奥底まで潜る。現実に戻る事を、心が拒む程に。深く深く落ちて行き。身動き出来ぬまま、抗いもせず、ただ享受する。喜びを。そこに満ち、蠢く何もかもを。ただ享受するほかのないと言う至福。耽溺する。呆然と。緩慢に溺れる。
その醜さを、愚かさを。激しく嫌悪したまま。共鳴する。暗く、歪んだ熱情を秘する人々に。熱情を秘する苦しみに。そして期待する。この上なく淫靡で、残酷な結末の到来を。彼等が自らに相応しい、凄艶な最後を迎える事を。惨めに、けれど艶やかに己が熱情を持て余す彼等の姿に。期待は押し留めようもなく募る。

既読作多し。けれど引き摺り込まれ、身動きが取れぬ中で果たす再会は酷く官能的であり、その喜びは格別のもの。奥深く埋もれ、溶けかかっていた記憶が徐々に輪郭を取り戻して行く感覚を、動かぬ身体の内にて確かに捉えたまま。再び溺れるほかないと言う、格別の喜び。最高であった。


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2017年8月6日日曜日

高橋たか子『高橋和巳という人 二十五年の後に』

見覚えある夫婦の姿。どこかで、高橋たか子の作品の中で、確かに、何度となく、自分は見かけたように思う。言葉を無数に、言葉になる前の、茫漠とした夢と夢を無数に、無言のまま交わし合い。更に引き出す。相手を。本人にさえ把握し得ぬ領域にある夢までをも。相手の内より、際限なく、戸惑う程。更に引き出し合う。そのような一対の男女を。自分は確かに、見た事があるように思う。自分は確かに、知っているように思う。
感情的な思い出話など、一つもなかった。何もかもを飲み込み、通り越えた為に。気付き得た事など。それぞれの内にあったはずの、実際には交わす事のなかった言葉。夢。不可解であった行為の正体。相手もまた、深みを生きる種類の人間であったと言う事。それぞれが自分自身の内に沈み込み、何があるか、模索し続けると言う夫婦の平穏。互いを引き出し合うと言う平穏。けれどいつしか、二人を取り巻く濁りに、流されてしまっていたのだと言う事。何もかもを見尽くそうと、自分自身の内に深く沈み込み、探り続ける試みの果てに。辿り着いたが為に。わかり得た事など。



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2017年7月30日日曜日

ナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話』

家族にのみ、通じる言葉。家族でないものには何の意味も持たない。家族の間でのみ、意味を持つ言葉。家族に対してのみ、意味を成す言葉。その言葉が通じる事こそが、家族である事の証、と言ったような。言葉それ自体が、家族である事を証明する、と言ったような。家族の言葉について。
その言葉を用いれば一瞬にして過去に、その言葉のある過去に、その言葉を繰り返し口にし、或いは耳にし続けた時間に、一瞬にして立ち戻る事が出来る。互いが家族であった時間に、一瞬にして立ち戻る事が出来る。そう言った、家族にとってのみ、意味を持つ言葉について。
呼称。あだ名。詩。歌のフレーズ。憤る際の、嘆く際の、皮肉る際の、口癖。決まり文句。そう言った、幾つもの言葉。家族の中で、家族として過ごした時間の中で、繰り返し使われ続けた為に、家族にとってのみ、意味を持つようになった、幾つもの言葉について。
暗く、過酷な日々の中でさえ、複雑で、不穏な変化の只中にあってさえ、増え続けていた。その根強さ故に。辛く、悲惨な体験を経てもなお、ただそれだけは残り続けていた。その驚く程のしぶとさ故に。他の何を用いて物語るよりも確かに、明確に家族を、自身の家族の歴史を物語る事が出来る。家族の言葉について。

そう言った言葉は、自分達にも確かにあるように思う。近しい人間にのみ、通じる。共通の記憶を持つ相手にのみ、伝わる。その言葉のある情景を、時間を、実際に生き、慣れ親しんだ者にしか、わかり得ない言葉。他人に伝わる事のない、むしろ他人に伝えるつもりも、理解を求めるつもりもない、内の言葉。
そう言った内の言葉、その家族の中でのみ通じるような、家族の公用語とでも言うべき言葉以上に、その家族の姿を明確に物語るものなど、存在しないのではないか、と今は思う。他人の目には不可解に、時に滑稽にさえ映る、そう言った言葉こそが。家族と言うものを物語る上で、何よりも力を持つのではないかと。



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2017年7月20日木曜日

多和田葉子『球形時間』

‪気になればいつでもどこでも、言葉を掴み、言葉尻を掴み、いちいち引っ掛かり、伸ばしたり、つついたり、いちいち触って、それを自分が好きか嫌いか、いちいち確かめて、飲み込んだり、早速使ったり、なんか違うと放り投げたりするせいで、全然前に進まない人達ばっかり。見過ごす事も、素通りする事も出来ないせいで。兎に角いちいち立ち止まるせいで。ぐるぐるぐるぐると、諸々しあぐねて、全然前に進まない人達ばっかり。
彼等はいちいち引っ掛かってしまう、どうしても。隠しても隠し切れず、彼等は群れの中にも、流れの中にも、全然紛れ込む事が出来ない。この世界にあっては生き辛さとなる類のそれ。異質さであると分類されてしまいがちな類のそれ。そのせいで悲しい思いをしたり、酷い目にあったり、大いに悩む。ぐるぐるぐるぐると、諸々しあぐねて、大いに悶々する。けれど結局はまた立ち止まってしまう、どうしたって立ち止まってしまう、立ち止まらずにはいられないやるせなさよ…。

なんじゃこりゃ、こんなのもあったのか多和田葉子、と最初は驚いたけれど、読後残ったものを見ればしっかり多和田葉子、紛れもなく多和田葉子であったと思う不思議。



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2017年7月17日月曜日

倉橋由美子『あたりまえのこと』

とんでもない小説毒本。その毒が私の読書の幅を狭め、読めない本、読みたくない本の量を増やし、読める本、読みたい本、決して多くはない彼等への執着と傾倒をより根深いものにする。
小説を楽しく読むにはまず、読んで楽しくないものを避けることが第一とし、読んでも仕方がない小説、読むのを避けるべき様々な小説を挙げ、それらを粛々と消去して行くやり方。如何につまらないか。如何にくだらないか。如何にまずいか。如何に劣悪であるか。あたりまえを語るのに相応しい鷹揚さと平静さを以て、遥か遠く、異世界の人間を見遣る際の無関心さと冷淡さを以て示した上で。次々と切り捨てて行くやり方。たとえ食わず嫌いの弊に陥ろうとも。つまらないものを読んで時間の無駄をするよりはましであるとの事。吹き出す。結構吹き出す。
すべてはあたりまえのこと…倉橋由美子のような、殿上人と言うか、桃源郷の住人と言うか、遥か高みにおわす、完成形、完全に振り切れ、この上なく整い、定まったような人のあたりまえを知る楽しさたるや。教えて頂く楽しさたるや。「小説の効用」や、〈二流の上程度の娯楽小説は特別の才能のある人でなくても書ける、ということです〉と言う辺り、〈高原の結核療養所のようなところに数年間入ることになった時にはいよいよプルーストが読めます〉など、特に笑う。



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2017年7月13日木曜日

村田喜代子『蟹女』

最初はただ、穏やかであるだけ。次第に何か、怖さが、不気味さが見え始め。けれど穏やかであると言う、和やかであると言う、最初の印象も不思議と消える事はなく。狭間を、合間を漂う感じ。怖さだけでなく。穏やかさも、可笑しさもある狭間を。確かに不気味であり、けれどまだどこかほのぼのともしている狭間を。
二度と戻れぬような状況にさえ、和やかさも未だ感じ取り続ける事が出来ると言う自然さ。何か一つ、例えば恐怖だけを選び、そこにあるはずの他の感情を黙殺しなくてもよいと言う。鷹揚に、悠長に。そこにある感情の、そのいずれをも認め、捉え続けていてよいと言う自然さ。互いを消し合う事なく、怖さも、穏やかさも、可笑しさも、同時に存在し得るものであると言う。同時にあり続けて然るべきものであると言う。その当然さ。それは物事をまとめたり、とりあえず片付けてしまおうとする人達にとって、大層都合の悪い当然さである場合が多く。結果、見て見ぬ振りをされてしまう事も多く。だからこそ、妙に安心する。村田喜代子を読むと。自分も忘れかけていたような当然と、当然の如く出会えて。怖さと穏やかさの狭間を漂い、爽快であるとさえ思う。

二度と戻れぬようなそこは、実は随分と近い場所。いつか自分も行かないとは言い切れぬ程に。それも今の自分のまま行けてしまうのではないかと思う程に、近い場所。気が付けばそこにいるかもしれない。


蟹女
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村田 喜代子
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